北京。少年時代から京劇養成所で厳しい訓練を受けながらも,兄弟のようにかばいあい慕いあって成長した2人の役者、トァン・シャオロウとチョン・ティエイー。たくましい大男のトァンは立役者、華奢な美少年のチョンは女形として、京劇『覇王別姫』の名役者として人気を得る。日本統治時代、第2次世界大戦、共産党政権樹立、文化大革命と動乱の時代の、時の権力に運命を左右される2人。トァンに恋心を抱きつづけるチョンであったが、トァンは高級娼婦のチュ-・シェンと結婚してしまう。愛憎渦巻く三角関係。愛に、舞台に、動乱の中国に生きる人々の悲恋を描く一大叙事詩。
ひたすら美しく、哀しい物語。
色鮮やかな中国の伝統的な風景もさることながら、人間描写の複雑さが素晴らしい作品です。
監督が登場人物の誰にも肩入れしていないためにそのような深みを持つことができています。(黒澤明監督作品にも共通する部分です)
他の中国映画では絶対的な悪役として描かれる日本人将校が京劇という伝統芸術の理解者となり、逆に中国人がその文化を軽視するという場面があります。
そして文化革命でその勢いは加速し、自国文化の破壊を招いています。
主人公達に対してもその姿勢は徹底しています。
小樓(シャオロウ)は幼い頃から共に生きてきたパートナーであるはずの蝶衣(ティエイー)を糾弾する場面があります。
本当の自分の考えというよりも恐怖や不安から逃げ出すために多数派に同調する。
そこで賛同を得た快感がさらに極端な立場をとらせてしまうのでしょう。
それが自称愛国者で差別発言をする人達の姿と重なりました。
現代日本でもそのような発言を聞くことが多くなっていますが、僕は誰も本気じゃないんだろうなと思っています。
日々の生活の中の不満が鬱積し、そのはけ口をある対象に定めることで攻撃を正当化する。
そんな人たちが集まり称え合うふりをして自己陶酔に浸る。
本当の問題は自分の中にあるはずなのに。
問題から目を逸らしたままで行き着く先は悲劇以外にありません。
そのような現代の風潮を重ねて観ても共通点を見出すことができるはずです。
ちょっと話はずれましたが、この作品では全ての登場人物の美しさと同時に弱さ、欲望、醜さをあぶり出しています。
それは人間そのものを描いているからなのです。
だから時代を超えても共感できるし、同じことで苦しみ続けるのです。
紀元前の史実を基にした「覇王別姫」が近代中国を生きる人にも重なり、そして現代の我々の心にも響く。
生きることは迷宮であり、そこから人は逃れることができないのです。
この作品を通し大きな歴史、人生を俯瞰して観るとそこに気付くことができます。
そうして何か気付きを得たのならば自分の生き方に反映し少しでも好影響を与えるきっかけとする。
芸術とはそのような役割を果たすものなのではないでしょうか。
人間を知るための芸術としてこの映画は最高峰にある作品でしょう。