藤本タツキの読み切り作品「ルックバック」が凄かった。
これはいろんな方面で人の心に刺さる名作です。
子供の頃の思い出、将来への不安、創作者の苦しみ。
そして大切な人を失った悲しみ。
それぞれ自分を重ねることがあったでしょう。
間違いなく2021年を代表する作品であると言えます。
そんな彼を人々は「天才」と呼びます。
果たしてそれは正しいのでしょうか。
最近「チェンソーマン」のコミックスを買いました。
僕は普段漫画を買うことはなく、AKIRA以来20年ぶりの漫画購入です。
でもこの作品を読むのは正直怖かった。
その時もかなり衝撃的でこれはすごい作家が現れたと思ったのですが、物語の終盤はかなり大きな肩透かしを食らってしまいました。
あと彼の性表現がちょっと苦手。。
その後読んだ読み切り作品の一部表現にもそういうとこがあって少し後味悪かった。(話自体はハッピーエンドなはずですが)
チェンソーマンも連載開始からジャンプ+で試し読みできたので読みましたが、ファイアパンチでもあったような軽率な動機、性表現がどうも引っかかりました。
それはチェンソーマンが始まりから面白いからこそ大きくなる不安です。
この後ファイアパンチみたいに全部ちゃぶ台返しされたらどうしようみたいな。
そうやって読むのを怖がっている間に第一部が完結しましたし、アニメ化も発表されました。
そのティザーがこれ。
うおおおおお!まじでシビれた!!
これを観た時に悶々とした迷いは吹き飛ばされてしまいました。
何度も繰り返し再生して脳が興奮し熱くなりその日は眠れなくなってしまいました。
普段アニメは全く観ませんがチェンソーマンは絶対観ます。
ここでやっと彼が天才なのかどうかということなのですが、僕が彼を軽率に天才だと呼べないのはチェンソーマンの作中から彼のクリエイターとしての苦悩が滲み出ているように感じたからなのです。
チェンソーマンで描かれた「デビルハンターは普通の人ではすぐに死んでしまう」という表現。
これは彼自身漫画家として成功するためにどうあるべきか常に考えてきたことの答えなのではないでしょうか。
普通じゃないということにこだわり、普通でいることを恐れている。
そんな風に悩んできたのではないでしょうか。
その他にもチェンソーマンは漫画家である自分を取り巻く環境を描いているような気がします。
デビルハンターが漫画家で公安は編集部的な?
その他に読者からの悪意なんかも感じる気がします。(まあこれは僕が創作物を常に何かの隠喩であると捉えてしまっているせいで純粋に見れなくなってしまっているからかもしれませんが)
ティザーにシビれた理由は、長い間才能第一主義の世界で苦しんだ末にその世界で最高のスタッフを集められアニメ化を実現したというドラマを勝手に感じたからです。
ルックバックに戻ってみると京アニの事件に対して大きなショックを受けていることが感じ取れます。
そしてその事件を自分のことのように苦悩し悲しんだのではないでしょうか。
あの作品は彼の非常に個人的な受容の遷移を書き留めたもののように思えます。
周りが何を思おうとどうでもいい、これが自分のあの事件、漫画への向き合い方だと示しているように感じました。
そんな苦悩が垣間見えるからこそ天才という一言で片付けるのは腑に落ちない部分があります。
これまでのセオリーを打ち砕いた、先の読めない面白さを描く素晴らしい作家であることは間違いありません。
これから先も期待と不安やいろんな感情をごちゃ混ぜにかき回し混沌とさせる作品を生み出していくのでしょう。
日本漫画の、ひいては日本人の思考のターニングポイントとなるはずです。
・・・それって大天才じゃん!(笑)